均衡という仮定

物理でも経済学でも、多くのマクロ理論は揺らいでもすぐに戻してバランスが崩れないヤジロベエのようなシステムを仮定していて、その中心の静的な状態は平衡とか均衡とか呼ばれる。そういう理論体系には『つりあいの式』みたいなモノが陽に方程式系に含まれていたり、保存則のクロージャーに関わっていたりする。それは多くの場合に適用可能な十分なリアリティを持っている仮定であって、それに基づく理論体系も非常に有用なものとして人類史に数知れぬ貢献を残して来た。ここで多くの場合と言ったのは、システムの非線形性に因る変動が本質的でない場合、つまり、あるObjectやAgentの挙動がシステムに変化を与え、それがまたObjectやAgentに跳ね返って来るような相互作用メカニズムが、他のメカニズムに比べて相対的に弱いか、若しくは揺らぎが微小でしかもすぐに打ち消されてしまうために、着目する現象スケールでは統計的に無視できる場合。
方程式系に安定平衡点である解が存在する系には、変化が起きた時にそれを打ち消そうとするバックリアクションが存在する。例えば荷電粒子の集まりなら、密度揺らぎが静電場を生んでも、電位差を解消する向きに電流が流れ、システムは揺らぎを打ち消そうとする。市場であれば、押し目買いや確定売りのインセンティブが生じることで、変化を押し留める機構が働く。変動を打ち消すのに十分な他Object・Agentの存在密度および空間スケールと、変動が打ち消されるのに十分な時間スケールの元での緩やかな変化は、その時空間スケールで均す統計操作・粗視化によって、定常もしくは準定常という均衡仮定に基づく理論解析が可能になる。均衡しているという仮定が保証するつりあいの式は、変動とそれを打ち消すバックリアクションを、それに必要なタイムラグを無視してくくって、瞬時にバランスすると見なすものだ。
しかし、変動による系の変化がその変動をより加速する方向で非線形フィードバックをもたらす機構が存在し、バックリアクションがそれを打ち消し切れない時間スケールでそのような加速メカニズムがサイクルして支配的になるような条件下では、システムは均衡を保ちきれずに新たな落ち着き場所を求めて大規模な変化を起こす。そういう局面、変化の途上ではそれまでの均衡条件は成立しない。
もちろん、摂動論的な安定性解析によって、平衡解を持つシステムに摂動・揺動項を加えて、補正を含む近似解や、不安定閾値、瞬間的な揺動成長率など平衡状態から近いところから変化がどう始まって行くか性質を求めることは出来る。だが、システムが平衡状態から逸脱して向かう先を、つりあいを仮定した方程式系で十分正確に考えることは出来ない。変動の行方を左右する、フィードバック機構が作用するまでのタイムラグと、平衡量分布(特に勾配や格差)の変化が、十分考慮されていないからだ。
野口悠紀雄戦後日本経済史で見かけて(へぇ)と思ったJカーブ効果てのがある。貿易収支の赤字が定着すると為替レートで自国通貨が下落、それが輸出を有利にして貿易収支を改善するという均衡メカニズムが考えられる。だが、為替相場が貿易に影響を及ぼすまでにはタイムラグがある(Jカーブ効果)。その間に輸入価格が上昇することでインフレとそれに伴う賃金上昇が発生すると、為替相場の下落に伴う輸出の比較優位を相殺して貿易収支改善に繋がらない。各国のオイルショックの影響からの脱却に差が出た理由に対する一つの説明だが、バックリアクションのタイムラグと、比較優位性という勾配の変動を無視すると、この帰結は予測できない。
世の中はちょうど変動期にあって、混乱中である。こういう時に均衡の仮定を含んだ理論を現象スケールを考慮せずに盲目的に濫用すれば、幾らでも誤った方策が導かれ得る。