オタクの三類型

(2011/08/21 加筆
どうでも良いことを考えた。世の中にはオタクと呼ばれる人たちがいる。しかし、オタクというのは極めて曖昧で広範に使われる概念でもある。
そこで、分野を問わずオタクを特徴付ける条件を分析し、整理してみようと思う。
もちろん完全なる主観ということになるが、一般的にオタクというのは多くの人から見て、嗜好が理解できない何かにのめりこんでいる人種を指すものだと思う。つまり、世の中の多くの人が共有していると思われる何らかの価値観に反した行動様式を持っている。しかし価値観とは極めて多様なものだ。したがって大多数の合意を得る価値観というものは、何らかの普遍的合理性に基づくものであると考えた。もし上の考えに従うならば、オタクを定義するということは、非オタクの極めて一般的な人々が共有しているその合理性を定義することに他ならない。その合理性に反した言動をする者たちこそが、オタクであるということである。

  • 第一の合理性仮説 〜 通常、人々は不必要な事物に時間や金銭を費やすことを好まない。

オタクに顕著な特性として、その収集癖がまず目につく。彼らは、その対象となるモノ自体の必要性や費用対効果を度外視して、集めることを好む。コンプリートしたり、自ら並べて眺めるまたは人に見せびらかすことを好む。この世の様々な事物に関するコレクターはこれに含まれる。彼らは腹に溜まらぬ物、あっても役に立たぬ物であっても所有欲を覚える。また対象は必ずしも具体的なモノでなくとも良い。乗り鉄のように『制覇』すること、乗ったという事実の収集を目的として行動する者もこの系統に数えることができよう。彼らは自分はこれだけ集めた、これだけ制覇したと誇る傾向があるが、他人はそれを全く羨ましいとも凄いとも思わない。
この合理性に反するまた別のものとして、不必要なスペックを求める行動も存在する。自動乗用車、コンピュータ、カメラ、音響機器などの分野で特に顕著に見られる。たとえば自動車の場合、通常の道路を走る限りにおいて、一度たりとも必要とならないであろう走行性能・加速性能を欲することになる。価格普及帯周辺の一般的商品との性能差に比して、高い購入費・維持費、その差額を負担することも厭わない消費行動は、その性能差を本当に必要としない限り、この合理性に明らかに反するものだ。
しかし一方で注意しなくてはならないのは、これらの道具が一種の自己顕示欲、有り体に言えば『見栄』に繋がっている側面である。平均的なものとの性能差が重要となるほどに、プロと同等のスキルと必要な機会を本当に持っているわけではない場合、それは虚栄とも言うべきものであり、私の僅かな経験に基づく偏見・管見では、乗用車にはオーナーの単なるコンプレックスが反映されているように思える場合が、少なからず存在する。しかしながら、それでも、例えば男性が高級車を乗り回すことによって経済力を誇示することは、それに誘引される女性に関心がある限りにおいて、合理的な行動である。つまり、オタク的なるものとは区別せられるべきである。

  • 第二の合理性仮説 〜 通常、人々は何らかの実質的な価値を得ることで自らの欲求・渇望を満たす。

アイドルオタクやアニメオタクと呼ばれる人々は、実際には何一つ我がものに出来ていないにも関わらず、充足感を得ている様子が看取できる。魅力的に見えるものを見るだけでは通常、人間は満足できない。握手したとしても、実はその手の感触は自らの左手を握るのと大差がない。健全な人間の性欲は、握手で満足を得るようには出来ていない。通常、何かを買ったり取ったりして所有する、欲望する異性を手篭めにする、仕事を成し遂げたり家族の幸せや子供の成長に貢献することで自らの存在意義を手に入れるまたは確認する、などといった価値を手に入れることによってのみ人は満足を得る。少なくとも第一類型におけるコレクターは不必要とは言え実際に何かを手にしている点で、この第二類型に当てはまる人々に比べれば一般的な人々から見た不可解さが軽度である。換言すれば、第二類型に当てはまるオタクはより一層『キモイ』。彼らは一般の人々が到底満足を得られぬ範囲にとどまる物であっても、恐らくその経験をイマジネーションで敷衍し、ファンタジーの中で完結する物語によって満足を得ているものと想像される。

  • 第三の合理性仮説 〜 通常、人々は自らの嗜好を追求するにせよ、他者からの評価が下がることやそれに伴う社会的な不利益を、可能な限り避けようと努力する。

人々は通常、現実の社会の中で人と関わり合って生きている。その関わりなしに日々の糧を得ていくことは難儀であるし、円滑な人間関係と安定した社会的な立ち位置は自らの人生を容易にする。通常それは趣味を追求する上でもネガティブなことでは無い。しかし、オタクと呼ばれる人々にはそれを構わなくなる者がいる。現実社会での自らの基盤を蔑ろにして顧みず、第三者からの視線を考慮しなくなる、若しくはできなくなる。この症状に至った者は異常な視野狭窄に陥り、最低限の清潔感のある外見や、常識的というか無難な服装すら自ら選択できなくなる。それに必要な極めて一般的な知識やセンスを失ってしまう。例え第二類型に当てはまろうとも、社会の中で浮かない最低限の常識と感覚を持って第三者の視線を忘れない者は、人から隠れオタクなどと呼ばれ、迫害や軽蔑を受けることは稀である。実際、自らの嗜好を追求したいだけならば、隠れオタクでも十分可能か、むしろその方が都合が良いことも多いと思われる。外見でこの第三類型と看破されてしまうレベルに達した者は「キモオタ」と呼びならわされ、いよいよ現実社会で居場所が限られてゆく。


以上、三つの十分に普遍的と思われる合理的原則を提示し、それに反する行動特性として「オタク的なる者」を三段階に定義してみた。強調しておきたいのは、ここでは個々人の『嗜好の方向性』に関しては何ら問題にしていないということである。私としても個人的に理解しがたい嗜好というものはあるのだけれども、法に触れない限り趣味の問題であるし、望んでしまったものは仕方が無いとも言え、それでオタクを批評するつもりはない。

最後に、本エントリの議論で導かれる一番重要な結論は、私はオタクではないという事である。